8彦根市


赤玉神教丸本舗(有川家)【鳥居本駅前】

滋賀の薬業史より〜彦根城の植物

■ 彦根城の植物

 彦根市立教育研究所編集の「わたしたちの彦根」という郷土読本の中に「彦根城の植物」という一項がある。そう長い文章ではないので全文を引用すると次の通りである。

 「城山全体には、百数十種の樹木と三百種にあまる草がある。これらは築城のとき、城内のようすを外からみられないためと、食料・燃料・薬用など、城にたてこもるときの用意に、各地から移し植えたものである。この城山は岩が多く植樹には困難をきわめたが、藩士の責任において管理させたので、みごとに根づいたという。今もそれらの木が大きくしげり、天下の名城にふさわしい落ち着きをみせている。」

彦根城 以上のとおりであるが、かつて筆者が彦根城を見学した時にも、「とげのある木を植えて敵の侵入を防げたり、食用・薬用になる樹木等が植えられている。」という説明を案内の方から聞いた記憶がある。くわしい調査もでぎないまま期限がきてしまったのでそのままになってしまった。「彦根市史」には、このことについては触れていなかったようであった。

滋賀の薬業史より〜三浦の五香と「反本丸」

■ 三浦の五香と「反本丸(へんぼんがん)」

 彦根市史によれば、彦根には「有川神教丸」のほかに「三浦の五香」と呼ばれる薬があった。これは彦根藩に仕えた三浦家の初代、与右衛門が元和元年(1615)大坂夏の陣に参戦し、若江堤の戦いの際、豊臣家の家臣、山田某から合薬の秘訣を伝授され、その書付を胃の中に納めて帰ったことに始まると伝えられる。寛文元年(1661)の記録によると、五香は、打身・ぎず・落馬・骨違・悪血・この痛み・産前産後血の道・頭痛なとに効能のある妙薬として早くから藩内に愛用されていたものらしい。三浦家は初代与右衛が三五〇〇石を給付されたほとの大身の武士の家柄で、したがって「五香」もまた、家伝の処方によって調合したものを武士の間に、希望に応じて頒布していたもののようである。営業として本格的な製造・販売に移ったのは廃藩の後で、次第に全国的に販売を拡げたが、戦後になって廃業することとなった。

 また彦根には「反本丸」と称するものがあった。これは牛肉の加工食品であったが、これに「反本丸」という名称を与えたのは、当時四つ足を食べることを忌みきらったからではないかと考えられる。元禄年間、藩主井伊直澄の家臣、花木伝右衛門が江戸在勤中に読んだ「本草綱目」の記事にヒントを得て製造したと伝えている。三〇万石、4000人余の士卒を抱える彦根藩では、必要とする武具・馬具の類を大部分藩内で自給したと言うが、そうした事情から「反本丸」の材料である牛肉の入手は容易であったろうと思われる。

  一説によると、農民がスキの上で肉を焼いたのがスキヤキの起源であり、それは彦根の藩内から起こったともいうが、こうした庶民の風習が次第に武士たちの間に薬用牛肉「反本丸」という形をとってひろがっていったのかも知れない。

 
 

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